そば屋のおやじのひとり言

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2002.06/06     『もっと外で遊べ』
 先日息子が私に『山』に行くと言った。山に行くと言ったって小学校6年生だから修行僧になるわけでも 山ごもリするわけでもない。近くの山に登るだけだ。
ハイキングコースになっているわけでもないが、道らしきものはある。私も子供のころにはよく登った山だ。
テレビゲームかまんがの本ばかり読んでいるので、とても良い事だと思った。

『山ぐらい いちいち報告せんと勝手に登れ』

と 一瞬思ったが、その辺は私の子供のころによく似ている。几帳面と言うか、律儀と言うか、気が小さいと言うか・・・
 しかし、一抹の不安が頭をよぎった 熊が出るのだ。

秋になると、冬眠に備えて熊が食いだめをする。最近は餌がないため民家まで降りてくる。だいたい柿の木きなんかに上って荒らしていくが、まれに家の中まで入ってきて冷蔵庫を勝手にあける。
一言でも言ってくれればいいが勝手にあける。

失礼なやつだ。
中には冷蔵庫を開けておいて何も食わないやつもいる。 そんなに貧しいものを食べているつもりはないが・・・。 
なんて笑い話を聞いたことがある。

 となり町なんか、夜9時ごろ役場に、正面玄関の自動ドアから熊がおいでになったらしい。住民票でも取りに来たのか 婚姻届の提出か。 
好みの職員がいなかったのか、対応が悪かったのか、とにかく 裏の自動ドアから何も言わず帰っていった。
 また、国道を車で走っていると、いたちやきつね・たぬきなんかは当たり前。いのししにぶち当たって自損事故なんてのもよく聞く。
鹿の泣き声がうるさく、農道を歩いているとき地鳴りがすると思ったら、目の前を十数頭の鹿に横切られ腰を抜かしかけた人もいる。

これは本当。

 話はそれたが、今は春といったて山に熊は付きものみたいな・・・  そんな土地柄だ。
そんな時、ふと自分の子供のときの事を考えてみた。
う〜ん・・・・  な〜んだ もっと危ないことやってたじゃないか。

友達と5人ぐらいで、お城跡の石垣(20〜30メートル)よじ登って降りてくるとか 交通量が少ないとはいえ、はじめて信号がついた見通しのきかない交差点を突っ切るとか その他、親が聞いたら顔真っ赤にして怒りそうなこと・・・

まっ 熊ぐらいどうにでもなるか。運が悪けりゃ その時はその時 と いろいろと考えていたのだが、朝出て
11時には戻りテレビゲームしながら弁当食ったそうだ。


2002.06/04     『今年のサラリーマン川柳より』
 ちょっと時期が外れましたが、今年のサラリーマン川柳の中からピックアップしました。どれか覚えはないですか?

  『リストラは ないのかモー娘また増員』

  『受験より 狭き門かな 再雇用』

  『こずかいも 平日半額 お父さん』

  『家を出る 時間が同じ 父とごみ』

  『まじっすか 「すか」がついてて 丁寧語』

  『振り向けば かわいい着メロ 出る上司』

  『発泡酒 はじけたバブルの 味がする』

  『手料理が どれかわからず みな誉める』

2002.05/30     『庖丁と切りべら23本の御常法』
 切りべら23本の御常法と言われても、そば屋でもなんでもない人には解らないと思いますが、これはそば屋の庖丁仕事の約束事で、一寸幅を23本に切りなさいよという事です。
 そば屋の庖丁仕事の基本は、まずそばの太さを均一に切ることにあります。切り終えた1本1本の太さが、一目見てそれとわかるほど不揃いであった場合は、茹で時間に影響がおよび、太いそばに合わせれば細いそばはゆで過ぎになり、細いそばに合わせれば太いものは早過ぎることになってしまいます。

一寸幅を23本に切るということは、3.03センチを23本に切るという事なので、そば1本の切り幅は1.3ミリということになります。ただし、延し幅はそれより若干厚く延していたので、そばの小口は真四角ではなく、長方形になります。

これが、江戸のそば職人の基本的な仕事とみなされていたようで、そのうえに数段階に分けて細打ちの仕事がありました。現在もそばの太さは、この御常法の影響下にあり、一寸を20〜25本の太さに切る店が多いようです。

 ここで庖丁(ほうちょう)と言う言葉が出ましたので、その言葉の由来についてお話いたします

 私たちは、『庖丁』と言う言葉を、料理用の刃物をさすものとして何の疑いもなく使っていますが、実は、この言葉の由来には、料理に携わるものにとって深い教えが含まれています。
『庖丁』と言う言葉は、中国の古典『荘子』(そうし)に出てきますが、その中で『庖丁』とは、料理【庖(ほう)】を職業とする丁(てい)と言う名の名人を指しています。
この料理の名人と梁の恵王との問答が次のように記されていいます。

  庖丁(ほうてい)、文恵君(ぶんけいくん)の為に牛を解く。手のふるる所、肩の寄る所、足のふむ所、膝のかがまる所、かく然 きょう然・・・・・・・。

原文を記しても少し解りにくいので口語訳を書きます。
 庖丁(ほうてい)が文恵君(ぶんけいくん)の為に牛を料理した。庖丁の手が触れるところ、肩をゆるがすところ足の踏む所、膝をかがめるところ、あるいはバリバリと、あるいはサクリサクリと、刀がたてる音はさえわたり、音楽のリズムに合っている。桑林(そうりん)の舞(舞楽の曲名)もこのようかと思わせ、経首(これも大古の音楽の名)の楽章の演奏そのままである。これを見た恵王は、『ああ見事なものだ。技も奥義を極めると、こんなになれるものか』と感嘆した。

 すると庖丁(ほうてい)は刀をおいて答えた。「私が願いとするところは、『道』であって『技』以上のものです。(中略)腕のよい料理人でも1年ごとに刀を取り替えますが、それは筋のあるところを切り裂くことがあるためです。普通の料理人は1ヶ月ごとに刀を取り替えますが、それは骨を無理に切って刀を折るからです。ところが私の刀は、今は19年になり、料理した牛は数千頭ですが、砥石からおろしたてのように刃こぼれひとつありません。もともと骨の筋と筋の間には隙間があり、刀の刃には厚みがありません。厚みのないものを隙間のあるところへ入れるのですから、広々としていて、刀を使いこなすのに充分なゆとりがあります。だから19年使い続けても研ぎたてのようなのです。
とはいえ、骨や筋が絡まり集まっているところにぶつかると、これは難しいと見て取り、心を引き締め、視力を集中し、手の運びを遅くし、刀さばきを慎重にします。やがて切り終えると、土の塊が地面に落ちるように、肉の山が骨から離れて落ちます。そこで私はホッとして刀を提げたまま少しばかり満足感にひたり、やがて刀を収めます」。
文恵君は言った。『なるほど、すばらしい。庖丁の話を聞いて、私は養生(ようせい)の秘訣を知ることができた』と。

 養生とは、与えられた自分の人生を全うする根本原理を言うそうです。名人の到達した境地は、自然の理に沿うことでした。
この話から『庖丁』が料理用の刃物の庖丁をさすことになったのですが、包丁仕事の理想がまことに見事に語られた話だと思います。
特に庖丁使いにリズムが重要だと言う点に同感します。              
                                                
一茶庵 友蕎子 片倉康雄  手打ちそばの技術参照
kogetudo@izushi.jp

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